ヒストリー・人物


名湯に歴史あり

草津温泉は何年生まれ?

白根山・本白根山という活火山に抱かれた草津温泉。
草津温泉開湯については諸説様々で、約1800年前の日本武尊発見説、奈良時代の高僧・行基発見説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝が入浴したことも知られています。この様に歴史上の人物が発見したとされるのは、太古の昔から、草津温泉の泉質がそれだけ有名であったことの証と言えるかもしれません。

入浴法にも歴史があります

古くから行われていた草津独特の入浴法として有名な"湯もみ"。
泉質を変えずに湯の温度を下げるための"湯もみ"は、当時、入浴者自ら行い、入浴前の準備運動を兼ねていました。
草津ならではの泉質を活かした温泉療法は、貴重な温泉文化として、今に受け継がれています。

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草津が歴史と出会った日

明治11年8月、日本政府の招きで来日したドイツ人医師・ベルツ博士がはじめて草津を訪れました。
草津を「世界無比の高原温泉であり、こんな土地がヨーロッパにあったら、カルルスバード(チェコにあるヨーロッパ有数の温泉場)よりもにぎわうだろう」と絶賛。ドイツ医学会では草津温泉の泉質や効能を発表、世界に紹介したのです。そして近代医学の観点から、草津独特の強酸性泉質等に着目、同時に立地や環境の素晴らしさも内外に広めたのです。
明治38年に帰国するまで、草津を理想の温泉郷とすべく尽力したベルツ博士は、今もなお町民の敬愛を集めています。

インターナショナルリゾートという、新しい顔

草津は温泉の質・気候・自然のすべてに恵まれた高原リゾート。ベルツ博士が第2の故郷として草津を愛した理由も、まさにそこでした。
草津は、昭和37年に博士のふるさとであるドイツのビーティヒハイム・ビッシンゲン市と姉妹都市を結んだのを初めとして、同じ経度に位置する山岳リゾート地のオーストラリアのスノーイ・リバー村、雪質や自然がよく似たオーストリアのノイシュティフト村、スパリゾートで高名なチェコのカルロビ・ヴァリ市と姉妹都市として手を結び、世界のスパリゾートとして新たな歴史を歩み始めています。

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草津温泉ゆかりの人物

源頼朝 由緒正しき将軍の白濁湯

建久4年西暦1193年、鎌倉幕府が開かれた翌年、源頼朝が浅間山麓での狩りの途中に草津温泉を訪れたと言われています。
ゆかりの場所は湯畑西側の"白旗の湯"。源氏の象徴、白旗からとったものです。幕府の力を知らしめるために東国各地で狩りを行った頼朝。
効能を基準とした江戸時代の温泉番付で、当時の最高位であった東の大関として名を馳せた草津の湯。
将軍と大関、トップに君臨するものとしての縁を感じずにはいられません。

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ベルツ博士 草津をKUSATSUにした恩人

"世界無比の高原温泉"と草津を評した、ドイツ人医師のベルツ博士。
東京医学校(後の東京大学医学部)教授として政府に招かれ、明治天皇の御典医も務めたベルツ氏は、近代医学の観点から、草津独特の強酸性泉質等に着目し、同時に立地や環境の素晴らしさも内外に広め、地域の発展に大きく貢献されました。
現在、彼の偉業等は「ベルツ記念館」で展示されています。

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志賀直哉 名湯は筆を走らせる!?

近代日本文学の傑作「暗夜行路」の後半部分は草津で執筆されました。なぜ草津だったのでしょう。思い描いたストーリー等の完成度を高めるための第三者的な場所が必要だったのでしょうか。いずれにしても、感性をとぎ澄まし、気持ちを集中するための地であり、湯であったはずです。
また、当地を題材とした「草津温泉」では、農夫と間違えられたエピソードなどが綴られています。
小説の神様と称される彼の創作意欲を節目節目で支えていたのは、草津の泉質や情緒だったのかもしれません。

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岡本太郎 湯畑とアートの意外な関係

湯畑を見下ろすと、なかなか凝った様式になっていることに気が付きます。
ひょうたん型に仕切られた湯畑と、その周辺の"遊歩といこいの場"は、「芸術は爆発だ」の名言でも有名な岡本太郎氏が、全体デザインを監修したものなのです。これは温泉とスキーを楽しみに、草津に足しげく通っていた岡本氏が、都市計画の依頼を受け実現したもの。
草津を愛していたからこそ、快く引き受け協力してくれたのです。名湯が育んだアートとの縁。草津の湯には、人と人とを結ぶ効能もあるようです。

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草津に歩みし百人

草津温泉の中心に位置する湯畑を囲む石の柵には、 草津温泉を訪れたゆかりのある著名人、その時代を代表する偉人として選出された「草津に歩みし百人」の名が刻まれています。
2000年の町制施行100周年を記念して刻銘されました。

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